「行ってみたい‼」と思わせ隊

    福島の観光案内で始めたつもりが・・・、現在は山歩きのブログです。

    会津若松市 ~飯盛山~



     大河ドラマ「八重の桜」の影響を受けてか、会津若松の観光地は例年より人出が多いそうです。沢山の人に福島県に来ていただけることは、大変ありがたいことです。

     でも・・・個人的に人混みは苦手なので・・・本格的な観光シーズンを迎えて混み合う前に、白虎隊のお墓のある飯盛山へ行ってみた。





    0401_20130305211954.jpg

     会津若松駅前の交差点から、通称:白虎通りを東へ約2km進むと飯盛山が見えてきます(写真中央)。

     左手の市営駐車場(無料でした。他にお土産屋さんの駐車場もあります。基本的に無料のようですが・・・)に駐車して歩いていきます。

     突当りの交差点を渡り、左に行くと、お土産屋さんの並ぶ参道があるので上って行きます。

     白虎隊記念館のところから階段になります。この階段、今の季節は雪に埋もれて非常に危険です。なので、白虎隊記念館の前(白虎隊の銅像有り)を通り迂回します。時間に余裕がない方、脚に自信がない方は「動く坂道(有料)」も有りますのでご利用ください。


     


    0402_20130305212604.jpg

     しばらく行くと、「奥州會津飯盛山」の石碑と嚴島神社の鳥居があります。鳥居をくぐって行きます。





    0403_20130305211954.jpg

     嚴島神社です。今から600年程前に建立され、昔は、宗像神社と言ったそうです。弁天様(弁財天)を祀っていたことから、飯盛山も弁天山と呼ばれていたそうです。

     明治初期に、今の嚴島神社に改名されました。嚴島神社と言えば、安芸の宮島(広島県)が有名で、しゃもじがおみやげの定番ですが、この神社にもしゃもじが奉納されています。

     しゃもじは弁財天の琵琶の形を現しているそうです。なるほど~、納得して先に進みます。






    0404_20130305211953.jpg

     厳島神社の北側にある、戸ノ口堰洞穴(弁天洞穴)です。猪苗代湖の水を会津盆地に引いた用水堰で、全長31kmに及ぶそうです。

     弁天洞穴(長さ150m)は天保6年(西暦1835年)に完成しています。それから33年後(慶応4年=西暦1868年)、戸ノ口原の戦いで敗れた白虎隊20名が、この洞穴を潜り、この地に辿り着きました。

     当時は新暦の10月初旬、洞穴の暗さや水の冷たさに耐え、必死の思いで辿り着いたのでしょう。



     今度は厳島神社の前を横切り南に歩き、坂を上って行きます。





    0405_20130305211953.jpg

     上った先にあるのが、さざえ堂です。堂内は上り下りがらせん通路で一方通行の不思議な建物です。





    0406_20130305212604.jpg

     更に上っていくと、会津若松の市街地が見えてきます。写真の下に写っている黒っぽい長い屋根が動く坂道(有料)です。





    0407_20130305212603.jpg

     先にある階段を上り、左(北)に向かうと、雪の中に白虎隊のお墓がありました。

     灯篭の奥に19基の墓石が並び、今でも線香が手向け(たむけ)られています。

     墓石の一つ一つには「自刃(じじん)」の文字が刻まれ、痛々しさと16~17才の若さで逝った無念さが偲ばれます。

     十九士の中には、山本八重さんに鉄砲を教わった少年もいたとのことです。



     例年4月24日と9月24日の2回、白虎隊慰霊祭が行われていて地元高校生による剣舞が奉納されています。





    0408_20130305212603.jpg

     お墓の説明板です。文中にある、約3ヵ月後妙国寺に埋葬したのは滝沢村の吉田伊惣治さん達だったそうです。白虎隊の中に、身内がいたかどうかはわかりませんが、西軍の禁制を犯しても弔おうとした気持ち・・・会津の人の「人としての思い」が伝わってきます。

     ちなみに、最初に埋葬された妙国寺は、藩主松平容保(まつだいらかたもり)公が降伏後に1ヶ月謹慎した地でもあります。飯盛山から北西に約500mの場所にあります。




    0409_20130305212602.jpg

     お墓から南へ向かうと白虎隊自刃の地があります。その中間辺りに、飯沼貞吉(貞雄)さんの墓碑があります。

     戸ノ口原の戦いから退却した20名の中で唯一生き残った方です。年齢を1才詐称してまで白虎隊に入り、会津の為に戦い、皆と共に自刃を試み、息も絶え絶えの所を発見されたそうです。

     この方が生きてなければ、白虎隊の話は今の世に語り継がれなかったかもしれません。

     飯沼さんは、戦争後、一度も会津の地を訪れなかった、と聞いたことがあります。そのことから、一人だけ生き残ったという無念さを背負って生きた人生の辛さも耐え難いものだったと思います。

     仙台の家の庭には会津特産の身不知(みしらず)柿の木が植えられていたそうです。その木を見て会津に思いをはせる時もあったのでしょう。





    0410_20130305212602.jpg

     白虎隊自刃の地にも石碑などが建立されています。ここから見た鶴ヶ城が黒煙に包まれ、落城したように見えたために、自刃を決意したそうです。

     写真は拡大してありますが、肉眼だと小さく、お城の形が分かる程度で、お城の状況までは把握出来ない距離です。


     今の時代なら、携帯電話やネットで情報が手に入りますが、当時の白虎隊士は、自らの目で見たものを、自ら判断し、自ら命を絶った訳ですから、少年達の凄まじさと勇気に恐れ入ります。

     自分の16、17才の頃と比べると・・・いや、今の自分と比べても遠く及ばない。





    行ってみた日 2013.3.3




    詳しくはこちらへ⇒会津若松観光ナビ






    大きな地図で見る
    関連記事
    スポンサーサイト

    Comments 0

    Leave a reply